[2002年9月に開催された社会言語科学会の研究大会で、以下のようなワークショップを企画しました。]
このワークショップでは、H. SacksやE.A. Schegloffらにより社会学の伝統の中で開始され展開された「会話分析(Conversation Analysis)」の可能性について、具体的な会話データの分析を中心に考えてみたい。とりわけ、「学習」という(ある意味では、きわめて古典的で、かつ厄介で、かつ曖昧な)トピックの様々な側面に、会話分析的手法によってアプローチを試みることで、会話分析が従来のアプローチと比べてどのような有意義な視角を提供するものであるかを、実演的に示していきたいと考えている。一方、会話分析が、各会話断片をそれ自体独特の事例として分析することから出発するため、次のような疑義が提示されることもあるように思う。会話分析は、なるほど、人びとが会話の組織化のための、いかなる能力をもち、またその能力をいかに発揮しているかを、説得的に明らかにすることはできるかもしれない。しかし、そのような能力を人びとが得る過程・条件は、そもそも扱えないのではないか、と。このワークショップは、このありがちな疑問に答える方向を得ることも、その目的の一つとしている。
様々な場面設定における「新米」と「熟練者」の相互行為が、各参加者により取り上げられる。高木は、子どもと大人の相互行為を扱うなかで、細田は、日本語の非母語話者と母語話者との相互行為を扱うなかで、それぞれ言語習得に関して何らかの示唆を与えることを試みる。Saftは、テレビの語学番組を分析するなかで、西阪は、子どものバイオリンの個人レッスンを分析するなかで、学習を「相互行為への参加」の一形式として捉え直すことを試みる。Berducciは、生物学実験における道具使用のインストラクション場面を分析するなかで、学習の達成が相互行為のなかでどう示されるかを見ていくことになる。
このワークショップは、このようにトピックが組織されるとともに、同じトピックに対して、言語学(高木・細田・Saft)・教育学(Berducci)・社会学(西阪)をバックグラウンドとしてもつ参加者が、それぞれの立場からアプローチしていくという、きわめて独特の形で構想されている。
なお、データはすべて日本語の相互行為から取られているが、使用言語は、日本語および英語となる予定である。
本研究では、日本語を母語とする幼児と大人との日常的相互行為場面を会話分析の手法を用いて詳細に観察・分析する。自分の行為に対する大人の反応がシークエンスの展開に関して何らかの問題を呈した場合、幼児はその問題を解決するために様々な働きかけをする。本研究では、とくに、(1) 大人の反応を引き起こした自分の最初の発話・行為を繰り返すことによって、「第三位修復(third position repair: Schegloff, 1991; 1992)」を試みる場合と、(2) 相手に対して最初の反応と異なる反応を要求する(すなわち、反応のやり直しを求める)場合とを取り上げる。これらの事例では、話し手である幼児が、すでに習得した言語的リソースや身体的リソースを駆使して自分の発話産出のフォーマットを適切に操作し、一方、受け手の側もそれを適切に理解することによってシークエンスが構築されていく。Schegloff (1989) は、トークの「二重の相互行為性(double interactivity)」という考えを提示しており、すなわち、トークには、いわば第二次の相互行為性があると主張している。言語それ自体が、その使用の最中に相互行為の産出や理解に伴う様々な問題の修復を可能にする装置(the apparatus of repair) を組み込んだシステムであるというわけである。本研究では、この考えを言語習得の現場に応用していきたい。子どもの言語習得の現場は、それ自体言語を用いた日常的相互行為によって成立している以上、まさに、相互行為におけるトークが随時修復可能であるという事実に支えられている。これを実証的に示すことを試みる。
The issue of what and how nonnative speakers (NNSs) learn a second language (L2) from interaction with NSs in instructed or experimental settings has been well documented in the field of second language acquisition (SLA). It is only recently that researchers have started to show interest in application of a Conversation Analysis (CA) approach to examine NNS interaction in natural settings. However, a question has already been raised as to whether CA methodology can be applied to studies on L2 learning. This Conversation Analytic study, which describes some interactional contexts in which L2 learning occurs in natural NS-NNS conversation, aims to provide a possible answer to this question.
The data analyzed for this study are based on 15 sets of NS-NNS conversation and 15 sets of NS-NS conversation between friends in Japanese. The analyses have shown that as participants in the NS-NS conversation did, those in the NS-NNS conversation usually attended to meaning creation; the participants did not publicly orient to "teaching" and "learning" of the language of interaction. However, the analyses have also revealed that in interactional contexts in which the participants in the NS-NNS conversation dealt with problems in the talk, the participants occasionally showed their orientation to "teaching" and "learning" of each other's language. For example, the NNSs in this study occasionally played "learner" roles through activities such as seeking NS help on L2 vocabulary, repeating words corrected by NSs, and so on, while the NSs played "teacher" roles through activities such as providing help on vocabulary, pursuing NNSs' uptake, and so forth. Thus, the present study demonstrated that: (a) even in ordinary conversation, NNSs may sometimes be provided with opportunities to learn something from interaction with NSs; and (c) turn-by-turn close examination of NS-NNS conversation has the potential to reveal language learning process in interaction.
Empirically-grounded analyses of CA may be a prime candidate for uncovering what and how NNSs learn L2 in ordinary conversation with NSs, which had never been fully discovered.
In this paper, I apply the principles of conversation analysis (CA) to data taken from TV programs in Japan which provide instruction on various foreign languages to the general public. The programs typically feature three main participants, a Japanese native speaker who is an expert in the target language (TL), a native speaker of the TL, and a Japanese native speaker, typically a young woman, whose task is to learn the TL. Although the young woman serves as the learner of the TL, interaction among the three participants is designed for a fourth party, the viewing audience. Using a sequential analysis, I describe how the interaction is used to frame the participation status of the three participants as well as the viewing audience. Then, following the analysis, I discuss the implications of especially the audience's participation in terms of styles of education in Japan.
In this paper I argue that learning is, and need only be conceived of as normative, and that the dominant Cartesian mode of conceiving learning as occuring in the heads of individuals is misconceived. I show how participants make public the process and achievment of learning through social interaction. I demonstrate this 'making public' by microanalyzing a particular incidence of learning: A biochemist training a technician in spectrographic analysis.
会話分析が「学習」を扱うとき、どちらかというと、学習の「過程」に焦点がおかれてきたように思う。しかし、なにかを「学ぶ」と言うとき、私たちは、単なる学習の過程ではなく、いままでできなかったことができるようになるという「達成」もしくは「成功」のことを言うこともある。この報告では、この「達成」という意味での学習が、相互行為への参加のあり方として、どう成し遂げられているかを、具体的なデータに即して考えてみたい。4歳の子どものバイオリンの個人レッスンを録画したものから、新たな課題を導入している数十秒間の断片と、その一月後のパフォーマンスを詳細に検討する。そのことを通して、以下の点を示してみようと思う。(1) 語りとジェスチャーと道具(弓)が特定の参加の枠組のなかで(相互行為の様々な偶然的な条件に左右されながら)相互に関係づけられることによって、バイオリンの弓が構造化されていくこと、(2) あるパフォーマンスが「達成」「成功」と評価されるとき、そのパフォーマンスおよびその評価は、ともに弓の特定の構造化に敏感な形で(ふたたび相互行為的に)組織されていくこと、(3) したがって、「達成」としての学習は徹頭徹尾、相互行為的な現象として捉え直すことができること。このような見方は、報告者が「記憶」について別のところ(『心と行為』[岩波書店]第4章)で論じたことの、一つの展開である。言うまでもなく、「記憶」と「学習」は概念的に深く結びついている。