[以下の文章は,明治学院大学社会学部の学内学会の学会誌『Socially』に寄稿したエッセーです.学生編集委員から依頼を受け,執筆しました.― 西阪 仰]
これから電話における会話の話をするけれど,なにぶん昔の電話,つまり据え置き電話である.携帯に慣れている君たちの電話でのやりとりとは,ちょっと違うかもしれない.
友だちってなんだろうか.いろいろな側面があると思う.ここでは,その一端を垣間見てみたい.電話というのは,長い友だち関係のなかの,短い一こまでしかないだろう.一方,どんな友だち関係も,友だちと何らかの形で時間空間を共にすることにより,維持されている.「短い一こま」であっても,そこで,友だちとの関係は,まったく変わってしまうことだってあるはずだ.そのような危うい瞬間を,友だちどうしは生き続けなければいけない.そのためには,様々な技がある.その技を1つだけ,実際の会話の分析をとおして見つけてみよう.
チリチリーン,チリチリーンと電話のベルがなる.受話器が上がる.さて,最初の問題.かけ手と受け手,どちらが最初に話すか.たまたまこんな歌詞に出くわした(伊藤洋介「二股の女」).
この歌は1999年の作品とのこと.おそらく据え置き電話だろう.問題は,明らかにかけ手であるイクオが,最初に「もしもし」と言っている.君たちは,どう感じるだろうか.これは自然か.実際は,ほとんどすべての電話は,受け手のほうの「もしもし」から始まっている.これには理由がある.その理由はここでは述べないが,次の点だけ注意しておこう.
どちらが先に話すかが決まっていないとどうなるだろう.受話器の上がる音がかけ手にも聞こえる.「カチャ」,音がした.かけ手は「もしもし」と言う.おっと,受け手も受話器を取ってすぐ「もしもし」と言う.かけ手は,あわてて,「もしも」ぐらいで切り上げて,相手に「道を譲る」.おっと,受け手も,「もしも」で切り上げて,こちらに道を譲る.一瞬間が開く.相手が道を譲ってくれたんだったらと,かけ手は「もしもし」をやり直す.おっと,受け手も同じことを考えたか,「もしもし」を同時にやり直してきた.そこで,あわてて,また「もしも」で切り上げる.やれやれ.いつまでたっても会話は始まらない.しかし,こんなことは,実際にはまず起きない.つまり,電話がかかってきたとき,誰がどうやって「もしもし」を言い,どうやって会話を開始するか,その手順があるのだ.つまり,電話の会話を開始するための「技」である.
しかし,ボクがこの文章で注目したいのは,「もしもし」の次である.かけ手は名乗りをあげる.「イクオだ」.この名乗り方は,どういう名乗り方だろうか.次の引用は,実際の会話からの引用である(固有名はすべて変えてある.引用中の記号については,http://www.meijigakuin.ac.jp/~aug/transsym.htmを見てほしい.ただし,//は,そこから次の行の発話が開始されていることを示す).受け手が最初に「もしもし」を言っている.
かけ手であるBは,「みきこですけど::」と名乗っている.この名乗りでは,名前(しかも下の名前)が,そして名前だけが用いられている.そこには,みきこの,ある主張が込められている.つまり,「みきこ」と言えば,それが自分のことであると,相手は直ちにわかるはずだ,という主張である.それだけではない.自分は,受け手であるAが誰であるかを,最初の(1行目の)「もしもし」だけで直ちに認識できた,という主張もそこに込められている.
一方,それに対して,受け手(A)は,4行目で「はい は:い.」と言うことで,「みきこ」が誰だかわかったことを主張するとともに,みきこは自分(A自身)が誰だかちゃんとわかったんだということも,主張している.実際,Aは,ついに自ら名乗ることがない.それでも,この5行目でB(みきこ)の主張が,Aにより認められると,Bは,直ちに用件を述べ始める(6行目).この名乗り方(2,4行目),およびそれへの応答のし方(5行目)は,まさしく「友だちである」ことをするための技であるように,ボクには見える.
次の例を見てみよう.
最初に受け手が「もしもし」を言うのは,同じだ(1行目).が,かけ手は,こんどは,名前だけではなく,自分の所属も述べている(2〜3行目).この名乗り方にも,いくつかの主張が含まれている.決定的なのは,名前だけでは,相手が自分を認識できないかもしれないという主張である.実際,4行目の受け手(A)の「はい::,」は,(1)の4行目のようには,必ずしも,相手がわかったことを主張していない.
かけ手は,5〜6行目で,名乗りなおす.ここでは,相手との個別具体的な関係(「教科書を貸している」)が述べられる.つまり,自分が認識されるための,さらなる手がかりを与えている.しかも,最初の名乗り方と決定的に異なり,こちらには,相手の声から相手が認識できたという主張が,込められている.いま,このかけ手(B)が用いている技は,「友だちである」ことをする技というよりも,「知人である」ことをする技であるだろう.
さて,おもしろいのは,次のBの応答である.Bは,非常に強調されたやり方で,いま相手がわかったと主張する(「あ, ああああああ」).それだけではない.B自身が語ることのなかった下の名前(「みきこ」)を,自ら述べることで,自分が確かに相手を認識できたことを,はっきりと示している.しかも,(下の名前という)親密な呼称を用いることで,自分と相手との本来の関係が,単なる「知人」ではなく,「友だち」であることを主張しているようにも見える.さらに,ボクには,この名前の言い換え(「池谷」から「みきこ」への言い換え)には,自分がなぜ最初に「みきこ」が認識できなかったかの,言い訳が組み込まれているようにすら,見える.つまり,そんなあらたまった言い方をされたから,あなたが誰だかわからなかった,と.
そして,最後に,9行目でBは,自ら「みきこ」と名乗りなおすことで,8行目でAが主張したこと(つまり,「2人の関係では,「○○の池谷」という言い方より「みきこ」のほうがふさわしいということ)を承認している.
ここには,関係の「交渉」が見て取れる.どのような名乗り方が,自分たちの関係においてふさわしいのかに関する交渉だ.友だちであるのか,単なる知人であるのかは,こうして,この瞬間的なやりとりのなかで,いわば再構築される.
一定の関係にある人たちが電話をかけあう.が,同時に,その関係は,一瞬のやりとりのなかで,再評価され,再構築される.会話とは,あまりにも小さい,しかしあまりにも大きな効果を持つものなのだ.(同じテーマで,電話の終了について書いた文書がある.興味のある人は,西阪「関係の中の電話/電話の中の関係」山崎敬一編『モバイル・コミュニケーション』大修館書店もぜひ.)