本書について「まえがき」にこう述べられる.「遺伝学的知識が,ある時代の社会にどのようなインパクトを与え,それに対して,関係する人びとがいかにそれを理解しつつ対応してきたのか,という人びとの方法の歴史を……まとめたものである」(viii頁).この「人びとの方法」は,おもに,ある遺伝性疾患の患者へのインタビューの分析をとおして明らかにされる.ここに本書の新奇な試みを読み取ることができよう.第1に,本書が向かうのは,遺伝的知識そのものではなく,それを人びとがどう受け止めたかという,人びとの経験の内容である.第2に,本書の目的は,その経験の内容をそのまま再現するのではなく,その内容の編成の方法を明らかにすることにある.それは,経験の内容の編成を経験の内部にとどまりながら解明するという意味で現象学的であり,一方,その経験の編成は,公的な語りのなかで接近可能なものとして扱われるという点で,エスノメソドロジー的である.
例えば,グループ・インタビューで,いわゆる「第2の物語」が,すなわち,ある人がその人自身の体験として語った物語と同じ構造の物語を,別の人がふたたび自身の体験の物語として語るというやり方が,しばしば観察されると言う(32〜34頁).第2の物語を通して,当事者たちの経験は,共有可能なものへと再編され,同時にそれぞれ独自なものへと再編される.このような分析に対して,それは本当にかれらが経験していることなのかと問うてみても意味はない.第1に,そもそも「本当の経験」,すなわち,その当人がまさにそのときに持った経験は,他の様々な経験とのネットワークのなかで,独特の意味を持った経験として記憶され想起されるにちがいない.第2の物語として語られる経験は,そのようにして(経験の新たなネットワークのなかで)想起された「本当の経験」だろうし,そのように理解された「本当の経験」だろう.第2に,個人の経験も,その個人にとって意味を湛えた経験である以上,その意味は,公的に接近可能なやり方で分節化されているはずである.だからこそ,第2の物語のうえに乗せてその経験は語ることができるし,まさにそのようなものとして聞き手にも理解できる.本書が照準するのは,まさにこうした経験のネットワークのなかで成立している経験のリアリティにほかならない.これを読み誤ると,おそらく本書が何を目指すかが,わかりづらいものとなる.第2の物語としてではなく,以前の自身の経験との対比で特定の経験が語られる場合も,同様である.一時点と他の時点との対比の構造のなかで,経験は想起され理解される.
以上は,本書を読むための手がかりである.とはいえ,ここで分析されている語りは,インタビューという1つの相互行為形式のなかで達成されている.本書は,当事者の経験のネットワークの更新を,インタビュアーとインタビュイーとの相互行為的な現象として捉えることに,もう少し積極的であってもよかったように思う.実際,語りの内容から,経験の内容を再現しているように見えかねない箇所もある.例えば,118〜119頁における「区切りを作る時間経験」の事例においては,インタビュイーの経験の変化についての語りから,インタビュアーが「気が抜けた」という表現を掴み出し,インタビュイーに提示している.このインタビュアーの実践が,インタビュイーに「気が抜けた」ことの内実を語るよう促し,その結果,特定の時点まで「気を張って」いたという語りが引き出されたようにも見える.このような相互行為的側面がもっと分析されてもよかっただろう.
また経験の構造を公的に接近可能な構造として取り出す作業は,決してやさしくない.その意味で,本書の分析がどの程度の精度のものかは,個別に検討するべきだろう.例えば,「晴天の霹靂」としての経験から備えるべきリスクの経験(自分だけに限定されない経験)へという,経験の変換が,41頁に引用されている2つの事例から引き出される.一方,いずれの事例も「けど」という対照性を際立たせる言い方で,自分のための情報と共有されるべき情報とが対比的に提示されている.引き出されている事柄と語り方の関係をより明示的に示していくと,より精緻な分析になったかもしれない.これは,インタビューから経験の構造を捉えようとする者たちに,本書から引き渡された課題である.
本書は,遺伝学的知識の(誰もが遺伝子を持っているという意味での)「普遍性」の議論(序章)から始まり,病の告知と遺伝学的知識との出会い(1章),患者会での経験(1章,2章),家族の経験(3,4章)といった「個別」の経験(の歴史)を辿り直す.そして5章で患者会の活動の持つ,市民活動としての「普遍性」が示唆される.経験の普遍性と個別性の往還は,遺伝性疾患を生きる人びとの経験が「誰の」経験でありうるのかという問題を読者に突き付ける.