[以下の文章は、アエラムック『新版 社会学がわかる』に寄せた「会話分析」に関する文章です。原稿段階のものであるため、一部文章表現がこなれていないところもあります。引用等は出版されたものからお願いします。]

会話分析について

いきなり、社会学とは何か、みたいな冊子で、「会話分析(Conversation Analysis: 以下CA)」と聞くと、きっと素直に受け取られるにちがいない。そう会話を分析するのだ。CAは、社会学のなかで、不思議な存在であり続けている。みんなちょっとは興味がある。しかし、ほんとうにやっている人はほとんどいない。注意しよう。会話を分析すればCAになるわけではない。CAは、1975年に不慮の事故で亡くなったサックス(Harvey Sacks)を中心に、シェグロフ(Emanuel A. Schegloff)らが鍛え上げた分析法だ。彼らの書いたもの(書きのこしたもの)には、人間に関するそれは深い洞察が見える。一方、シェグロフによる(手取り足取りの)「特訓」では、無心にデータと向き合うことが求められる。

CAにおけるデータとは、テープレコーダもしくはビデオカメラにより録音・録画されたもの。いまはコンピュータに取り込んで、繰り返し見る・聞くのも楽になった。15年前は大変だった。当時大枚はたいて買ったビデオデッキ、二台壊した。とにかく、ちょっとした間合い、言葉の重なり、すべて見逃してはいけない。これが第一に重要なこと。そして、このように細かく見ていけば、じつは、そのような「ちょっとした」ことを、私たち自身、いつも気にしながら会話をしているのがわかる。これが第二に重要なこと。そうやって、会話という社会的活動がどう組織されているかを明らかにしようというのがCAの基本的な構えである。

それにしても、私たちがいつもやっている、何の変哲もない会話。こんなことにどうして関心をもつのか。しかし、考えてみよう。私たちは、会話なしで一日たりとも過ごすことはできない。どんな重要なことでも、何らかの人と人とのやりとりによって決まっていくにちがいない。そのような実際のやりとり(おしゃべりであれ、診療であれ、教室であれ、会議であれ)がどのようになされているのか。これはそれ自体研究するに値する現象であるはずだ。たしかに、会話は、言い間違えや淀み、「あー」とか「うー」でぐちゃぐちゃだ。しかし、その「ぐちゃぐちゃ」は秩序立っている。簡単な例をあげよう。ある人が自分の見たテレビドラマについて語っているところである。

(1)
Y: だから ドラマだから 別にそうしなくても生きて: い- 生き残れた方法あったのかもしれないけど、

「:」は音が延びていること、「-」は音が途切れていることを示す。さて、ありがちな淀みがある。しかし、この淀みはきわめて秩序立っている。「(生き)てい(けた)」といった類の表現が、「(生き)残れた」に置き換えられている。そのことがわかるように、この淀みは組織されている。第一に、「生き」が繰り返されることで、置き換わる部分が枠づけられる。第二に、置き換わる部分(「残れた」)は、置き換えられる部分(「てい(けた)」)と同じ種類の表現言葉(補助動詞? 文法的呼称はどうでもよいが、「同じ種類」と認識できる表現)から選ばれている。何が何にどう置き換えられたかがちゃんとわかるように、言い淀んでいるのだ。

会話は非常に精巧に組み立てられている。もう少し複雑な例を出そう。姉が妹にかけてきた電話の始めの部分である。

(2)
A: はい?
C: あ○○さん(す)か?
A: はい。=
C: =あ 洗濯終わってた? ←
A: hh hh [hhhh ?hhhh
C:      [あ やってたの? ←
A: や- や(hh)ってた- ん 今朝もうね:、朝一でさ::、だから:、

「=」は、ほとんど音が重なるような勢いで発言がつながっていること。「h」は息を吐く音、「?h」は息を吸う音。「[」は、言葉の重なりが始まる場所を示す。矢印をつけた二つの質問に注目しよう。呼び出し音に受け手(A)が応えたあと、かけ手(C)は、相手の苗字を用いて着信点の確認を求めている。Aが肯定的に答えたあと、最初の質問である。「洗濯終わってた?」という質問は、いくつかのことをしている。第一に質問である。第二に、電話の開始部でなされたことに注目しよう。例えば、これまで、かけ手は自分で名乗っていない。三行目のAの形式的な返答(「はい」)は、Aが相手をその声だけではまだ認識できていないことを明らかにする。そのとき、Cの質問は、次の二つのことを行なう。一つは、Aの声から、Cが(単に着信点だけでなく)Aのことをすでに認識できていることの主張。もう一つは、この場所でこのような生活習慣にかかわる質問をすることから、相手によって自分が誰かも認識されうるはずだということの主張である。だとすると、次のAの笑い(笑いの音は基本的に呼気音で転写する)は、AがCを認識したことの主張となるだろう。

まだある。質問はしばしば、同時に他の行為を構成する。例えば、「明日映画に行かない?」は、形式は質問だが、同時に誘いになりうる。例えば、こんなのはどうだろうか。

(3)
C: 薬は のんだかい?
A: ううん:、のんでないけど もうたぶん大丈夫、

友達同士の会話だ。Aが今日は風邪をひいて「くたばっていた」とCに報告したあと、Cはこの質問(「薬はのんだかい?」)をする。じつは、このときのCは、まるで父親が子どもに語りかけるかのような言い方をしている。さて、もし父親が子どもに薬をのんだか聞くとしたら、それは単にほんとうにのんだかどうかの情報を得ようとしているとは考えにくい。「のんでないならば、のめ」と示唆しているにちがいない。これが私の勝手な解釈でないことは、Aの返答をみればわかる。もしCの質問が単なる質問であるならば、「ううん、のんでない」と答えれば、それで十分だ。しかし、Aは、すぐに続けて「けど、大丈夫」と言っている。つまり、最初に質問に対して否定的に返答し(「のんでない」)、ついで、Cの示唆・アドバイスを拒絶している(「大丈夫」)。つまり、A自身、Cの質問を、単なる質問ではなく、同時に示唆・アドバイスだとして受け止めているのがわかる。

さて、(2)の質問に戻ろう。「洗濯終わってた?」という質問は、他にどんな行為でありうるか。ふたたび、この質問の位置に気をつけよう。電話の用件(電話の理由、すなわち「最初の話題」)がもちだされる前に、この質問は来ている。最初の話題の前に質問が来ることは、しばしばあるではないか。例えば、「食事中じゃなかった?」というような質問。これは何をしているのだろうか。別に食事していたかどうかの情報を求めているわけではない。もし食事中ならば、あとでかけなおそうかという伺い、もしくは提案である。ところで、なぜ洗濯なのか。一つは、なんといっても姉妹だ。互いの生活習慣を知っていて不思議でない。しかし、それだけではないように思う。Aは、二行目でCの(いくらかぶっきらぼうな)声を聞く。苗字を尋ねるという他人行儀なやり方であっても、言い方および声質から、三行目で、Cが誰かわかったことを主張してもよかった。しかし、その主張がなかったとき、二人の関係に照らして、その「なかった」ことが際立つ。つまり、それが「なかった」理由が説明されてしかるべき状況が成立する。Cのこの質問は、このような理由説明にもなっている。「まだ洗濯していて取り込んでいたため、姉である自分を認識できなかった」という具合に。

そして、Aの笑いだ。この笑いも、じつはいくつかのことを行なっている。認識の主張になっていることは、すでに述べた。が、この笑いは、もう一つ重要な仕事をしているように思う。これを明らかにするため、少し迂回しよう。「薬はのんだかい?」にしても「洗濯終わってた?」にしても、答えには「はい」「いいえ」の二通りある。この二つの答えは、じつは対称的ない。一般に、同意のほうが優先的である。こんな例はどうだろうか。四十歳くらいの人に、親が健在か聞かなければならないとしよう。このとき、あたたは「ご両親は亡くなっていますか」と聞くだろうか。たぶん聞かない。この質問も、「ご両親は健在ですか」という質問も、同意の返答は「はい」である。つまり、いずれも「はい」と答えることが優先的である。つまり、「亡くなっているか」という質問への優先的な返答は、「亡くなっている」である。これは、本人にとっては好ましい状態ではない(と期待できる)。私たちは、本人にとって好ましいと期待できる状態を優先的に返答できるよう、質問を組み立てているわけだ。また、依頼や誘いなどの行為の場合も同じである。誘われた人は、その誘いを受け入れるか、断るかしなければならない。この選択肢も対称的でない。やはり同意のほうが優先的である。実際、誘い(「映画に行かない」)を受け入れるときは、「行こう、行こう」と言えばよい。しかし、断るときは、「行かない」だけでは、終われない。行かない理由・言い訳も必要となる。あるいは、そもそも「行かない」などとはっきり言わなくても、言い訳として理解可能なこと(「宿題がたくさんあるんだ」)が語られれば、それだけで断りになってしまう。さらに、受け入れるときは、二つ返事になるところが、断るときは、しばしば口篭もったりする。もう一つ。この同意/非同意の優先関係は、ときたま逆転することがある。例えば、自分が誉められたときなどは、非同意(「いや、たいしたことないですよ」)のほうが優先的である。最初の話題に先立って電話を切ることの提案に対しては、じつは、非同意(「切らなくてよい」)のほうが優先的である。

「洗濯終わってた?」という質問に対し、同意の答えは「終わってた」である。一方、用件に先立つ終了の提案としても、やはり「終わってた」と言うほうが優先的である。つまり、この質問は、形式としての質問への優先的返答が、同時に、終了提案に対する優先的応答でもあるように組み立てられている。

では、Aの笑いは何なのか。じつは私たちが笑うのは、可笑しいときとはかぎらない。先ほど、非優先的応答において、しはじは口篭もると言った。誘われたけれど、行けない。断ろう。そのとき、私たちはしばしば笑うではないか。「映画行かない」「え? ふふ」。こんなふうになれば、誘った相手にも、断ろうとしているのが予測できるだろう。Cの二つ目の質問は、C自身のこのような分析にもとづいている。つまり、Aの笑いから、最初の質問に対する非優先的返答が予測できる。ならば、Aが実際に非優先的返答を行なう前に、むしろ、Aが優先的返答を行なえるよう質問を組み替えてやろう、というわけだ。「やってたの?」という二つ目の質問に対する優先的返答(同意)は、こんどは「やってた(=終わっていない)」である。実際、次にAは「やってた」とはっきり答える。しかし、この答えは、こんどは終了提案にとっては非優先的な応答になっている。Aは「やってた」と(はっきりと、しかし、言い直しや笑い声により口篭もりながら)返答したあと、その理由説明を長々と始めることで、自分の返答が、非優先的応答で(も)あること、このことを自分が承知していることを明らかにしている(しかも、その理由説明を長々と行なうことで、洗濯中だけれど、電話を切る必要のないことを実演的に示している)。

いかがだろうか。会話が複雑に、しかしきわめて秩序立ったしかたで組織されていることをご理解いただけただろうか。重要なポイントを一つ。質問に対する答えが質問に依存していること、このことに疑いはない。(2)にそくして見てきたことは、じつは、質問も相手の反応に依存しながら組み立てられるということである。私たちの発言は、およそ「相互行為的」に組織されている。このようにCAは、相互行為の組織を明らかにしながら、私たちの行為や発言が、個人のものではなく、相互行為的なものであることを明らかにする。そう、ちょうど、デュルケームが、自殺のような、きわめて個人的に見える現象が、社会的な現象であると主張したように。

右で、例えば「優先的」と述べたことは、決して個人的な好みではない。個人的には行きたくない映画に誘われたときも、断るのにやはり理由を言いたくなる。私たちは、会話を組織していくためのこのような仕掛けを、たくさんもっている。CAは、どのような仕掛けにより、特定の位置に特定の発話が産出されるにいたるのかを明らかにしている。一方、この仕掛けは、別に私たちの背後で動いている「機械」(脳のメカニズムのような)ではない。それは私たち自身が「実際に行なっている」こと(の記述)にほかならない。つまり、非同意のとき口篭もり、言い訳・理由を述べる等々というのは、私たち自身がごく普通にいつも行なっていることである。私たちが会話を組織するのに、実際のところ、普段何を行なっているのか。CAの仕事の中心は、じつは、これに見通しのよい記述を与えるところにある。

(2)についてやったように、一つのやりとりの組織を丁寧に見ることは、それ自体大切なことだ。しかし、CAの目指すところは、あくまでも、会話の組織のための「仕掛け」を明らかにする点にある。優先関係の組織、電話の開始における相互認識のやり方などは、そのような「仕掛け」の例である。シェグロフは、会話において「修復」((1)で見たような現象)の例を1000以上集めた。しかし、彼がやったことは、そこから一般的パターンを抽出することではない。一つ一つ、上でやったような分析を行なう。最後に本人から聞いたところによれば、300いくつかまで分析が終わったとのこと。何か一つの際立った現象があったとき、手元のデータから同じ現象を集めてみる。なかには、明確な事例もあるし、境界的なものもあるだろう。似ているけれど、まったく異なる現象の事例もあるだろう。それを一つ一つ分析していくことで、一つの見通しのよい記述を目指す。これはとても忍耐のいる仕事だ。やってみて結果が出るかどうかもわからない。それでも、シェグロフがいつも言っているように、録音・録画をとおして見える(聞こえる)ことは、ほんとうにリアルなことにちがいない。


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